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日本語に主語はあるのか

日本語に主語はあるのか

ことば (45) 学校文法と三上文法

松野町夫 (翻訳家)

日本語に主語があるのか?それともないのか?これについて、学校文法と三上文法とは主張が異なる。ここでいう学校文法とは、私たちが学校で学ぶ文科省お墨付きの国文法をさし、三上文法は、『象は鼻が長い』や『日本語の論理、ハとガ』の著作で有名な三上章(みかみ あきら)の提唱する日本語文法をさす。学校文法は当然のことながら日本で広く普及しているのに対して、三上文法は海外では有名だが国内ではあまり知られていない。恐ろしいことに、主語の有無について両者の見解は水と油のように真っ向から対立する。

「花は美しい。」や「花が咲く。」は文である。

学校文法では、「花は」や「花が」を主語だと教える。(日本語に主語はある)
三上文法では、「花は」を題、「花が」を主格とする。(日本語に主語はない)

私自身、中学生の頃、体言(名詞)に助詞の「は、が、も」がつくと主語になると教わった記憶がある。私も長い間、日本語に主語はあると信じて疑わなかった。ところが三上文法によると、英語などインド・ヨーロッパ語では主語は述語動詞の形を決定する重要な成分で必要不可欠なものだが、日本語には初めから主語などというものは存在していない。助詞の「は」と「が」はまったく性質の異なるものであり、これに「主語」という同じレッテルを貼っているのはおかしいというのである。

確かに、「象は、鼻が長い。」という文の主語は何か、と尋ねられたら返答に窮する。学校文法に従えば「象は」も「鼻が」も両方とも「主語」ということになる。しかし、単文に2つの主語があるのは変だ。三上文法によると、「象は、鼻が長い。」という文において、「象は」は題(主題、題目 topic)で、残りの部分「鼻が長い」は解説 (comment) だという。この文の場合、「鼻が」という主格が解説に含まれている。

しかし、日本語では主格(何が、誰が)がなくても文は成立する。たとえば、料理文がそうだ。料理文では「何を」は何度も登場するが、主格「誰が」は出てこない。言う必要がないからだ。

山崎紀美子著 『日本語基礎講座』三上文法入門 ちくま新書の38ページから、料理文の一例を引用する。

「新ゴボウのかき揚げ」(朝日新聞2002年4月18日)
<主な材料>
新ゴボウ2本(200グラム)、桜エビ(素干し)15グラム、牛乳100cc、大根200グラム
<作り方>
ゴボウは汚れを落とし、斜め薄切りにして水にくぐらせ水気を切り、薄口しょうゆ大さじ1をからめます。ボウルに薄力粉100グラム、牛乳、桜エビ、ゴボウを入れまぜます。8等分し170度の揚げ油で、カリッと揚げます。大根おろしとしょうゆを添えます。

作り方の冒頭にある「ゴボウは汚れを落とし」は、言うまでもなく、ゴボウが自分で汚れを落とすわけではありません。ゴボウについて言えば、その汚れを料理人が落とす、という意味です。「ゴボウは」は、主語などではなく、題なのです。ですから、その後に続く「斜め薄切りにして」「水にくぐらせ」もゴボウについて言っているのです。「水気を切り」もゴボウの水気を切り、という意味ですし、「薄口しょうゆ大さじ1をからめます」もゴボウにからめる、ということです。つまり、題は、点(コンマ)を越えるのです。
ここで、もし冒頭を「ゴボウの汚れを落とし」というようにすると、「斜め薄切りにして」や「水にくぐらせる」のが、何を対象としているのかわからなくなってしまいます。

うーん、なるほど。日本語では主格(~が)がなくても文は成立する。ちなみに薄力粉(はくりきこ)とは、アメリカ産ウェスタン・ホワイトなどの軟質小麦を製粉して得られる小麦粉のこと。本書は、三上文法の基本がわかりやすく解説されているので、文法が苦手な人でもわかりやすい。

日本では、中世に歌学者らが作歌のための手段として助詞・助動詞などの用法の研究を行ったのが、文法研究の始まりとされる。近世の国学者らはこれにいっそう科学的な姿勢を加えて、いわゆる係り結びや活用の研究、初歩的な品詞分類にも及んだ。本居宣長(もとおりのりなが)、富士谷成章(ふじたになりあきら)、本居春庭(はるにわ)、鈴木茎(あきら) らにすぐれた業績がある。幕末から明治にかけてオランダ語や英語の文法書に接すると、一時期、これにならった日本語の文法書も次々に現れたが、その後は、いわば旧来の国学者らの文法研究と、欧米における文法や心理学・論理学等の諸研究との双方から、成果を適切に摂取しつつ、日本語の文法研究が進められてきたといってよい。大槻文彦(おおつきふみひこ)、山田孝雄(やまだよしお)、松下大三郎、橋本進吉、時枝誠記(ときえだもとき)、三上章(みかみあきら)(1903‐71) らがそれぞれ特色ある体系的な研究を残している。【以上、平凡社『世界大百科事典』から抜粋】

三上文法の存在にもかかわらず、日本語に主語があるのかないのかについて、現在でも文法学者により主張が異なる。最近の言語学でも日本語に主語があるという。日本語文法はまだ発展途上にあるのだろうか。仮に日本語に主語があるとしても、それは英語の主語とはかなり異質なものであることは門外漢の私でもわかる。

主語は和文英訳では確かに威力を発揮する。英語では主語は必須だから。実務文書の和文英訳で毎日、悪戦苦闘する私にとって、英語などの主語・述語という概念は単純でわかりやすい。すてがたい魅力がある。主語という概念を日本語文法にも何とか流用できないものかと、ひそかに願う気持ちもないわけではない。「主語」が明示されていない和文(文脈依存文)に出くわすと、その都度、前後の文脈から主語を特定しなければならない。「さて、この文の主語は何だろう?」とつぶやきながら探索しているような気がする。無意識のうちに、英文法を通して和文を見る習慣がついているようだ。

国際語として断然優位な地位を築いている英語は、世界各国の言語に影響を与えている。他の言語でも一般に、英語の主語・述語にならってその言語の主語・述語をとらえようとする傾向があるという。しかし、そうした試みは、その言語が英語と同じインド・ヨーロッパ語に属していないかぎり、「労多くして功少なし」という結果に終わるのではないかと私は危惧する。

英語と日本語は、残念ながら、言語構造のかけ離れた言語である。英文法の概念を転用して、日本語文法を再構築することは可能かもしれないが、それはおそらく回り道であり、その成果も日本語の特質をあますところなく明快に解明するところまではいかないのではないか。やはり、日本語文法は、三上章がしたように、日本語から構築する以外に方法はなく、それこそが一番の近道だと私は思う。三上文法がなぜ日本の学会で評価されないのか、不思議でならない。
by LanguageSquare | 2009-02-21 09:35 | 日本語 | Comments(0)