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時代区分とは何か

時代区分とは何か
日本と西洋の歴史の流れは驚くほど似通っている

松野町夫 (翻訳家)

歴史の流れを、それぞれの特徴に応じて一定の期間に分けることを時代区分(periodization)という。西洋では古代・中世・近代の三分法がルネサンス期以降広く行われていたが、最近では前後に原始と現代を追加して、原始・古代・中世・近代・現代の五分法が普通となっている。日本では、これにさらに近世を加えて、原始・古代・中世・近世・近代・現代の六分法が一般的だという。

西洋では、古代・中世・近代の三分法がルネサンス期に成立した。ルネサンス(Renaissance)は、14世紀から16世紀にかけて、イタリアをはじめとして、ヨーロッパ各地に起こった大規模な文化的活動の総称。哲学・文献学・キリスト教学・美術・建築:音楽・演劇・文学・言語学・歴史叙述・政治論・科学・技術など、それぞれの文化領域において、顕著な発展があった時代である。ちなみに、この時期は日本の室町(足利)・安土桃山(織田・豊臣)時代に相当する。当時の西洋人にとって、古代はギリシア・ローマ文化を、中世はキリスト教的束縛の暗黒時代を、近代は彼らが生きた時代(ルネサンス期)を意味した。

時代が進むにつれ、古代・中世・近代の三分法に、前後に原始時代と現代を追加して、原始・古代・中世・近代・現代の五分法が次第に普及し、西洋史の標準的な時代区分となっていった。
マルクス(1818-1883)とエンゲルス(1820-1895)はヨーロッパ社会を生産様式から原始共産制・奴隷制・封建制・資本制に区分した。これは原始・古代・中世・近代という西洋史の区分にほぼ相応する。
ヨーロッパ社会 → 原始共産制(原始)・奴隷制(古代)・封建制(中世)・資本制(近代)

時代区分は歴史認識や価値観によりさまざまだ。人により、国により異なる。また同じ国であっても、それぞれの時代の始まりと終わりについてその国の学者により見解が異なる。

中国ではかって王朝別による時代区分が行われていたが、現在、中国では奴隷制・封建制・資本主義体制・社会主義体制に時代区分している。日本でも中国の王朝別の時代区分に従って、政権の所在地・統治者により、大和・奈良・平安・鎌倉・南北朝・室町(足利)・安土桃山(織田・豊臣)・江戸(徳川)・明治・大正・昭和と区分したりする。

そこで、遊び心で日本史を原始・古代・中世・近世・近代・現代の6つにに分類することにした。参考資料は、日本語大辞典、広辞苑、世界大百科事典、ウィキペディアなど。なお、時代の始まりと終わりについて見解が異なるところは、総合的に判断してもっとも妥当と思われる見解を採用した。

日本史の六分法による時代区分
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こうしてみると、日本と西洋の歴史の流れは驚くほど似通っていることがわかる。マルクスのヨーロッパ社会の生産様式にによる時代区分も、日本社会にほぼ照応している。

西洋社会 → 原始共産制・奴隷制・封建制・資本制
日本社会 → 原始共同体・良賤制・封建制・資本制

もっとも日本の古代の「賤民(せんみん)」と西洋の「奴隷」とは共通点も多いが異なる。

古代ギリシア・ローマ時代では、おもに捕虜や債務が原因で奴隷とされた。奴隷は居住移転の自由がなく、売買、贈与の対象になり、主人に生殺与奪権が握られていた。家事、鉱山、工業、農業、商業の無償労働者として働くことを強要された。結婚や私有財産は認められなかった。

日本の古代の「賤民」は、結婚は可能であり、ある程度の私有財産を持つことは許された。ただし、賤民は同身分間での婚姻しか認められず、良民との通婚は禁止された。7世紀のころ、犯罪、貧困による人身売買、債務、捕虜などが原因で、また、王族・豪族・寺社の隷属民が賤民にされた。8世紀の律令法の良賤制、すなわち人民を良民と賤民に区分する制度により、賤民は身分として確立した。賤民は、陵戸(りょうこ)・官戸(かんこ)・家人(けにん)・公奴婢(くぬひ)・私奴婢(しぬひ)という5種の身分に分けられた(五賤)。奴婢は五賤のなかで最下位の身分であった。官戸・家人は家族を形成し、家業を有し、家族全員同時に使役されない点で、公奴婢・私奴婢と異なるが、実際は官戸・家人は少数で、賤民の大多数は公奴婢・私奴婢であり、かつ公奴婢・私奴婢は家族を形成する場合が多く、官戸・家人と同様の存在形態を示していた。8世紀の奴婢は、地域差はあるが人口の数%以下であったという。

西暦か元号か
年代の数え方は西暦が世界標準である。日本では現在、公文書には元号、新聞などには西暦と元号の両方が使用される。西暦はどの国でも通用するが、元号は島国・日本でしか通用しない。元号は中国、漢の武帝のとき(西暦紀元前140年)から使用され始めたという。その後、次第に近隣諸国に普及していったが、現在、元号を使用している国は日本だけ。
西暦はキリストが誕生したとされる年(実際は生後4年目)を元年として数え、そこから毎年規則正しく年数が積み重なって行く。単純明快。西暦はどの国でも通用し、簡単に時代を通算できる。

しかし、元号では時代を通算するのが複雑になる。たとえば、明治45年、東京市がワシントン市に3000本の桜の苗木を贈っているが、この桜の樹齢は現在だいたい何年か?これに即答するのはむずかしい。しかし、元号を西暦に変換(明治45年=1912年)すれば簡単だ。2013年 - 1912年 = 101年。樹齢はおよそ100年だとすぐにわかる。

1912年は明治と大正が共存している。明治45年(1月1日 - 7月30日)、大正元年(7月30日 - 12月31日)。元号は皇位の継承があつた場合に限り改める(一世一元の制)。つまり、明治天皇が7月30日に亡くなり、この日に皇太子が皇位を継承し大正天皇となり、大正時代が始まった。皇位は世襲制。元号は天皇の死亡日を時代の終わり、または新時代の始まりとする。この方式は予測不能で、規則性がなく複雑だ。天皇主権の戦前の日本はともかく、国民主権の現代日本にはふさわしくない。

元号法は1979年(昭和54年)6月6日に国会で成立し、6月12日に公布・即日施行された。政府自民党が主導し、野党の社会党や共産党などが反対した。当時、私は新橋の貿易会社に勤務していたが、元号法の成立が腹立たしく、その夜、同僚とやけ酒を飲みながら、いまどき元号なんて時代遅れもはなはだしいと憤慨したものだった。公文書に元号を使用する今のやり方はおかしい。当面、西暦と元号を併記するとしても、将来、公文書は西暦に統一すべきだ。


by LanguageSquare | 2013-08-12 11:04 | エッセー | Comments(1)
Commented by ひーたん at 2019-04-03 12:49 x
2019年4月に新年号が閣議決定され「令和」と決まりましたが概ね日本国民には受け入れられているようです。改元は不合理だ、とおっしゃられており確かに一定の理屈はあるのでしょうがその行き着く先を考えれば文化の破壊になるのは必然でしょう。元号を用いる国が他にないのはそれだけでもいにしえの文化を紡いで来たという証であり誇るべき日本の文化であります。マスコミの好きな街の声では「時代の流れを感じる」など西暦では感じづらい時の流れを改元では感じさせ時代の移り変わりをはっきりと国民に自覚させる、いい意味でも悪い意味でも西暦では決してできない効果が改元にはあると思います。日本の元号は好きですか?と聞かれたら好きです、と答えられる日本人でありたいと思います。