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「英語の発想」

タウンズマンお薦めの一冊

安西徹雄「英語の発想」講談社現代新書

本書は、翻訳の現場からという立場に立って、具体的に翻訳のプロセスを点検し、そこでどんな転換が必要となるかを見ることによって、日本語と英語の発想の対比を引き出してくることをねらいとしている。

英文和訳

In the study of the behaviour of the higher animals, very funny situations are apt to arise, but it is inevitably the observer, and not the animal, that plays the comical part.

(Konrad Lorenz, King Solomon’s Ring, Eng. Trans. M. K. Wilson)

英文解釈流に直訳すると、

高等動物の研究において、非常に滑稽な情況が起こりがちだが、しかし喜劇的な役を演じるのは、不可避的に観察者であって動物ではない。

安西氏はこれを自然な日本語に意訳して、

高等動物の行動を研究していると、非常に滑稽な場面によく出くわすが、そんな時、きまって道化役を演じるのは、実は動物ではなく、むしろ観察しているわれわれ人間のほうなのである。

そして、ポイントを次のようにまとめている。

英語では名詞で書いてあっても、日本語ではこれを動詞に読みほどいてやったほうが、自然な訳文を得やすい。

英語では「もの」を主語にした構文になっていても、日本語では人間を主体にした表現に変えたほうがついて行きやすい。

英語では、重要な情報は文章の前のほうへくるのにたいして、日本語ではむしろ、力点は文末にくる傾向がある。

和文英訳

川端康成 『千羽鶴』の一節から、栗本ちか子が主人公の菊治にむかって、稲村のお嬢さんとの見合いの段取りをつけた話を報告しているくだりがある。

「さきほど稲村さんにお電話で申し上げますと、母といっしょですかと、お嬢さんがおっしゃいますから、お揃いでいらしていただければなお結構ですと、お願いしたんですけど、お母さんはお差支えで、お嬢さんだけということにしました」

これにたいするサイデンステッカー教授の英訳は、

When I spoke to Miss Inamura over the telephone, she asked if I meant that her mother was to come too.
I said it would be still better if we could have the two of them. But there were reasons why the mother couldn’t come, and we made it just the girl.

原文と訳文を注意して読みくらべると、実にいろいろの問題点が見つかって興味深い。そういうポイントを、以下一つ一つ取り出して考えてみることにしよう。

主語の欠落

日本語では主語に相当する言葉がほとんどすべて表面から姿を消しているのにたいして、英語では当然のことながら全部きちんと表に出してあるということ。日本語ではただ一ヶ所、「お嬢さんがおっしゃる」に主語が出ているが、ここも実は、「お嬢さんが」はかりになくても、文章が曖昧になる心配は少しもない。敬語・謙譲語などのいわゆる「待遇表現」によって、誰が誰にむかって誰のことを話しているのか、主語などなくても一目瞭然だからである。

日本語では「主語」がよく省略されるというけれども、これは別に「省略」されるのではなくて、むしろ本来必要としないからではないかという想像もつく。もともと動詞・助動詞の働きによって、主語など表に出す必要がないのである。

直接話法と間接話法

『千羽鶴』の一節を英訳とくらべてもう一つすぐ気づくのは、話法の扱い方のちがいである。

原文では、「母といっしょですか」という部分、それから「お揃いでいらしていただければなお結構です」という部分は、それぞれ稲村嬢の話した言葉、それにちか子自身が語った言葉を、ほぼそのまま、直接話法で再現するという形をとっている。日本語ではこういう場合、こうした形で話のやりとりを伝えるのがいちばん普通だし、そのほうがずっとわかりやすい。というより、かりにこの電話のやりとりを間接話法で伝えようとしてみても、いったいどのように表現すればいいものやら、ほとんど見当もつかないくらいだ。

このことは、英訳をもう一度日本語に訳しもどしてみればよく理解できると思う。英訳ではわざわざ説明するまでもなく、どちらも間接話法に置きかえてあって、英語としてはこのほうが自然な表現だ――というより、日本語とは逆に、この場合、直接話法を使うことは事実上不可能だと思うけれども、それはともかく、たとえば「母といっしょですかと、お嬢さんがおっしゃいますから」に当たる部分を、また日本語に訳しもどしてみようとすると――

…she asked if I meant that her mother was to come too.

「彼女は、私がいうのは、彼女の母親もまたくるべきだという意味かどうかをたずねた」

というようなことになる。これではわかりにくい。

日本語では、直接話法で当人のいった言葉をそのまま再現するからこそ、敬語や謙譲語を使い、誰が誰に誰のことを話しているのか、情況を的確に表現できるのだし、逆に間接話法で情況を客観的に再現しなければならないことになれば、待遇表現の道が閉ざされてしまい、わざわざ主語を表に持ち出さなくてはならなくなるほど、日本語としては相当に不自然な表現を強いられることになる。

動作主としての人間

原文と英訳を比較すると、英訳では「主語+他動詞+目的語」が多用されている。

「母といっしょですかと、お嬢さんがおっしゃいますから」

…she asked if I meant that her mother was to come too.

原文からはちょっと想像もつかない転換だが、英訳では if I meant that … という「主語+他動詞+目的語」という形式を使っている。日本語の感覚からするといかにも意表をつかれた感じがするけれども、なるほど英語として読めば、確かに自然な表現だと感心せざるを得ない。

こういう転換は、実はここ一ヶ所ばかりではない。たとえば――

「お揃いでいらしていただければ」
if we could have the two of them

「お嬢さんだけということにしました」
we made it just the girl

英語では一般に、actor-action の型の文章の構成法がきわめてひろく使われる――その中でも特に、「動作主+他動詞+目的語」の構文が非常によく使われるという事実は、すでに英語学者がしばしば指摘しているところだけれども、これが英語の発想にとってどれほど根本的なパターンであるか、こうして日本語と具体的に対比してみると、改めてなるほどと思い知らされる。こんな短い例文の中に、この「動作主+他動詞+目的語」の形が三度も顔を出すのだ。しかもその三つの場合いずれも、日本語ではこんな形で他動詞が使われてはいないのである。

まとめ:

日本語では主語の働きは動詞によって果たされる面が多い。だから、わざわざ主語を表に出す必要のない場合が少なくない。

日本語は一般に直接話法が得意である。ところが英語は、むしろ間接話法を得意とする。

日本語では、物事全体が自然にそうなったというような表現を好むのにたいして、英語ではこれを人間の行動として捉え、「動作主+他動詞+目的語」の形で表現することを好む。

「無生物主語」の構文

英語では「動作主+他動詞+目的語」という構文、なかでも、その「動作主」の位置に人間以外の無生物が入った「無生物構文」というものがよく使われれる。たとえば――

The force of the smell brought him back to the real world.
「その臭いの強さが、彼を現実の世界に引き戻した」
「その臭いがあまりに強かったので、彼は現実の世界に引き戻された」

A humming of insects suggested the autumn.
「虫の声が、秋であったことを思わせた」
「虫が鳴いていたので、秋であったように思えた」

このような場合、無生物主語をそのまま主語に訳すのではなく、副詞句(節)に置きかえたほうがよさそうだ。あえて一般的な公式の形にまとめるとすれば――

(英語) 「XであるAがBをYにする」
(日本語) 「AがXであればBがYになる」


以上でこの本の抜粋を終わります。どうでしたか、おもしろいでしょう。この本を熟読され、実践されてみてはいかがですか。〔タウンズマン〕
by LanguageSquare | 2008-03-28 20:52 | 推薦図書 | Comments(0)